那須野の旅人

那須を起点として各地の風物や生活ぶりを見つめます

大谷平和観音


宇都宮市大谷の大谷石採掘場からほど近い平和観音にお参りした際の記事です

大谷観音

色々の角度から観音様を撮りました。最後の2枚は戦争慰霊碑と大谷石の斷崖
 (下側の画像送り釦をクリック)


ここは10枚あります。このボタンをクリック→

平和観音は 太平洋戦争の戦死者を悼み終戦後間もない昭和23年(1948年)から6年に亘り大谷石採石場跡の 凝灰岩層壁面に総手彫りで彫られた像高88尺8寸8分(26.93メートル)、 胴回り20メートルの石造観音菩薩像で 竣工は昭和29年(1954年)、 開眼は昭和31年(1956年)5月4日。 東京芸術大学教授飛田朝次郎が製作した。 尚、 近くにある大谷寺との直接的関連はないが「大谷観音」の呼び名は大谷寺の国の重文大谷磨崖仏を指し 混同する人も多い。平和観音像の前は大谷公園の名で広場になっていて 平和観音像を目の前に休息できる。 又、像周縁には階段 ・ 通路が整備され間近で見ることもできるし、像上から大谷の町を見晴らすこともできる。

平和観音A

平和観音像の彫られた石質は凝灰岩です。撮影日は暖かく抜けるような碧空だった
東京芸大教授だった故飛田朝次郎氏の造作による平和観音像の顔はその優しく慈しみ深い
表情が人を惹きつけるのか訪ね来る人が多い



縄文時代最古の人骨

ほぼ完全な縄文時代最古の人骨が出土.
平和観音から200メートル程離れた斜め筋向いに大谷寺がありますが、 そこの洞穴遺跡に磨崖仏が 岩に彫られていて国の重要文化財に指定され内部の写真撮影は厳しく監視されていましたが、その磨 崖仏を火災から護るための工事をしていたところ、洞穴遺跡から約11,000年前の縄文人骨が出土 した。 もちろん放射性炭素の放射能量を検証した結果であるが、ほぼ完全な形で年齢20歳前後の 身長は154㎝の男子であることが分かり、 縄文最古の人骨であると結論された。他にも同時に多くの 土器類も出土し 共に資料館に展示してある。それにしても死因は分からないが身長が現代人に比べ 随分低いのに驚く。  この一帯は凝灰岩洞穴が古代から存在し 生活の場としては恵まれていたので あろうが屈葬されていた。展示物の撮影は禁止なので資料館入場券の写真から掲載しました

  1. 2018/02/18(日) 17:16:46|
  2. 小さな旅
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源有綱塩原に死す


塩原には昔からいくつかの伝承が記されています。
山深い未開の土地でしたから戦に破れれた落人の隠れ里となることが多く、 それに
まつわる伝承がほとんどです。今回は鎌倉時代同じ源氏でありながら頼朝に逆らって
宇治の決戦で破れて塩原に逃れた源三頼政が潜んでいた源三窟での話を紹介します


地元塩原温泉に残る鎌倉時代初期の出来事です。
心温かい村人たちの好意がアダとなった皮肉な話

源有綱の最期

この伝承は史跡鍾乳洞「源三窟」として塩原温泉の観光スポットの一つとなっています。
( 読み方は「げんざんくつ」といいます )
  この伝承について疑問点を2,3取り上げてみました。
先ず米についてですが、 米の研ぎ汁が白く濁るほどの白米を食べるようになったのは一般に江戸
時代の明暦年間 (1655~1658年) 頃からだと言われています。しかし, 平安時代でも貴族の間
では白 米に近いものを食べていたとの説もあります。 それはあくまでも 貴族であって庶民は玄米
をそのまま焼いたり蒸したりしていたそうです。 源有綱は義経に就いて戦っていましたが年齢も義
経とほぼ同じで保元・平治の乱で戦功があり 平清盛に一時は信頼された源三位頼政を祖父に持つ
良血ですから贅沢な白米を食していたかもしれません。 しかし、 逃亡先の山里塩原に白米が存在
したかといえば疑問で塩原要害の城主塩原八郎家忠からの差し入れがあったとしても 一山奥の要
害に精米技術が伝わっていたとは考え難く、 この米の研ぎ汁に関する伝承は後世の創作とみるの
が妥当ではないでしょうか。 史跡といっても伝説に近い話なのでこうした粉飾例は他にもあります。

又、かなり信頼性のある史書である『吾妻鏡』等の記録では有綱は今の関西地方が活動の場であっ
たらしく、頼朝に追われた義経と別れた有綱は郎党と共に大和国宇陀郡に潜伏したが、  文治2年
6月16日、 義経の残党を捜索していた北条時定の手勢に発見され、 合戦の末に敗北し深山に入っ
て自害したと記されていて塩原に潜伏したことにはなっていません。どちらが真実なのでしょうか?
もう一つの疑問は 洞窟を発見され頼朝の手の者(北条方)の襲撃にあった際に 戦いに敗れて自害
し たことになっています。  どういうわけかこの種の伝承は最期に自害が多いのですが義経は別と
して有綱の場合狭い洞内で不意撃ちを食らったのですから 『自害』 する暇はなかった筈です。 たと
え洞外に出て戦っても、 家来が何人いたか不明ですが自害には少々の時間を要するのが普通で、
激しい突発的 戦闘の中では無理と見て私は自害ではなく討ち死にとしました


源三窟内にある武具資料館には洞内で発見された有綱のものと言われる鎧・兜が
保存されていて、年代測定でも実証され興味深い
有綱の遺品

尚、 源三窟という名前の由来は、 有綱の祖父源三位頼政(げんさんみよりまさ)の一族が都を逃が
れ塩原に辿り着いた時に立ち寄ったのがこの鍾乳洞で、 当初は源三位穴と呼ばれましたがいつ頃
からか今の『源三窟』の名前に替わったようです。源有綱に関わる人物相関図を下に掲示します


源有綱家系図
朱記の部分にご留意ください
源三窟の名の由来である源三位頼政は相関図の中ほどに見えます。三位というのは朝廷から賜った
官位であり頼政は上から4番目に高い従三位で中納言という身分ですが宇治での末路は哀れでした。

この時代は源頼朝が鎌倉幕府を開いてから円熟期に入って、 北条氏も頼朝の妻に政子を配したこと
もあり徐々に幕府内で勢力を強めていた頃で頼朝に協力して義経追討の先鋒を担っていたのである。
その北条氏の追っ手が山深い塩原にも及んだのであった

  1. 2018/02/18(日) 14:01:32|
  2. 未分類
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