那須野の旅人

那須を起点として各地の風物や生活ぶりを見つめます

大内宿からホテルサンバレー那須へ




長女夫婦の招待でホテルサンバレー那須の一泊旅行に出かけました。運転は娘婿でした。
チェックインは15時からなのでその前に南会津の大内宿を訪ねることになり、会津西街道を
下郷町に向かい、まだ紅葉前で混雑皆無のドライブを楽しみ大内宿には早めに到着しました


大内宿メイン通り

先ず大内宿のこの日の様子をYoutube 動画にしました。短かい時間なので是非ご覧下さい

ここ10数年来、鄙びた宿場町はすっかり観光地化した。民宿などを除き林・農業などで生計を
たてていた人たちも、こぞって家屋を土産物店やそば屋などに変えた。 そば屋は20数軒ある


大内宿を訪ねて
 大内宿は鎌倉・室町時代頃には山本村という名称であったが、中央政界で高倉以仁王が平家打倒の兵を挙げたが宇治平等院の戦で破れ、越後に逃れる途中この村に隠れた。その際村の雰囲気が宮中の大内(だいり)によく似ていたので大内村と名付けたという伝承がある。

 その後、伊達政宗の小田原攻め参戦の際の宿場となったり秀吉の奥州仕置の際に秀吉が宿泊したようである。江戸時代には会津と江戸を結ぶ会津西街道筋だったことから会津藩の参勤交代時の三番目の宿場として発展した。
国指定ではないが現在は:重要伝統的建造物群保存地区となっている



大内宿でも老舗のそば処三澤屋
三澤屋

三澤屋内部。上がり框で予約注文してからなんと1時間も待たされた
三澤屋の内部上がり框付近

そばは水浸け麺で長い高遠ネギを箸替わりにして食べるのが話題を呼んでいる。
ほとんどの蕎麦屋がこの食べ方をメニューの一つにしている

高遠ネギの箸で食べるそば

特注した天ぷら盛り合わせ。画像では見えないが栃の実まんじゅうの天ぷらも盛られていた
特注天ぷら

古来からの伝統を受け継ぐ茅葺き屋根
現代ではこうした茅葺き屋根を後世に遺すことは非常に困難で努力を要する。
飛騨高山の合掌造り集落などではかなり以前から保存に力をいれ、人材の育成に成功しているが
ここ大内宿でもこの貴重な文化遺産を遺すべく最近は特に屋根葺き職人等を育てているようだ

伝統的な茅葺き屋根


ホテル サンバレー那須にて
那須連山の北側台地に位置する標高700m弱の大内宿から那須湯本のサンバレー那須までは
那須の中腹を貫く高原道路利用で約1時間の道のりだ。 カーブの連続で娘婿も疲れたようだが
チェックインには余裕を持って無事到着した

サンバレー本館&新館
宿泊は新館でした

到着後すぐに温泉へ。数多い泉質の湯の中で特筆すべきは含北投石硫黄泉である。
北投石とは放射性のラジウムを大量に含む温泉沈殿物重晶石(硫酸バリウム)で日本では
秋田県の玉川温泉がその含有量の多さで有名である。それと同様の北投石を存分に使用
しているのがこの硫黄泉で、硫黄とラジュウムの相乗効果で癌等の療法に役立つというが
入浴して感じるのは身体に浸透する温泉の豊かな温もりである 硫黄泉内風呂

入浴の後はバイキング会場へ。バイキングは東京の雅叙園で経験しているが
そこまではゆかないまでも結構充実いていた。客層は断然中高年

バイキング会場

宿泊早朝のホテル4階の窓から。日の出直後の画像
宿泊翌早朝のホテル窓から

朝食後本館屋上から那須五峰を含めた那須連山を望む。
この日の朝は快い涼風が吹く快晴で展望は最高だった

那須五峰
  1. 2016/10/22(土) 14:10:46|
  2. 小さな旅
  3. | コメント:4

落ちない城  500対10,000の戦い


  福島県天栄村牛ヶ城跡 (周辺の土地名から正式には大里城という)
東日本大地震では天栄村もかなりの被害を蒙った。震災後1ヶ月の時点で訪ねた際は農家の
土蔵や石塀など、いたる処で全・半壊が見られ、心傷む惨状だった。
天栄村は羽鳥湖へ通じるR294が中心を貫いているので度々立ち寄って道の駅での買物や294
沿いにある牛ヶ城跡の散策など楽しい土地であった。しかし、 道の駅は放射能で汚染さている
農産物が扱えない事から半閉鎖だった。 よく汲んでいた清水も汚染が心配という事から今まで
足が遠のいていた。久しぶりの天栄村はすっかり元の姿に回復していた。
今回は牛ヶ城跡を訪ねて登城口からゆっくりと丘を登りながら、写真撮影を楽しんだ


牛ヶ城跡を訪ねて

ふるさと文化伝承館

 今から600年前に築かれた山城で正式には大里城という。当時の城は平時に住む「館」と
戦時に立て籠る「詰の城」とに分かれていた。館は下図の南側にあったと思われる。
牛ヶ城の戦国時代の城主は須賀川や岩瀬地方を支配していた二階堂一族、箭田野氏で
守備兵力は400~500と非常に少なかったようだ。 そこを伊達政宗の軍勢約1万が包囲し
たのである。前年には本家の須賀川城が伊達軍によって落城しており、 政宗はこの城を
落とすことにより、会津を始め白河を除いた福島の中通り大半を手中にできるので必死で
攻め込んだが当初の見込みとは違い苦戦を強いられることになる。 これが後の政宗の
政治的危機を招く事になる。それに関しては後述する

牛ヶ嬢鳥瞰図
上図中の数字は「郭」と言われる平地で郭と郭との間には急峻な段差(崖)が設けられていて、
城攻めには厄介な構造だ。一見平凡な山城のように見えるが伊達軍を苦しめた一因になった。
現在は本丸跡まで郭部には見学し易いように階段が造られている。
↑ 図と↓ 図はGoogleフリー画像から


牛ヶ城攻防の様子
  さて、伊達政宗から牛ヶ城攻撃を命じられたのは二階堂氏滅亡後に須賀川周辺の領地を与えられていた石川昭光を中心に伊達家の重臣片倉小十郎や伊達成実などで、牛ヶ城を三方向から取り囲んだ。小さな山城と侮った伊達軍は最初の攻撃で大打撃を受け、その後援軍を得ての攻撃も牛ヶ城側の強力な鉄砲隊の活躍や郭への斜面を登る伊達兵に対して大石を落としたり、夜になって寝静まった伊達軍陣地に夜襲をかけるといった戦法で僅か500足らずの守備兵が1万の伊達軍を寄せつけなかった。
  ある時などは城への水の供給源である清水場を抑えていた伊達兵数十人が、折からの豪雨に怯んでいた隙に急襲され全滅するなど伊達軍は牛ヶ城を容易に落とすことができない。その要因の一つには伊達軍の総大将石川昭光が先年まで二階堂一族として共に戦っていた牛ヶ城側に対しあまりやる気がなかったとの説もあり、結局落城しなかった。又、秀吉の小田原城侵攻の最中であったことだ。

政宗は秀吉の命令で小田原の北条攻めに参戦するように促がされていたので、それを守らざるを得ず牛ヶ城攻めにはわずかの兵を残して小田原へ移動したのであった。しかし、到着には大幅な遅れを生じ、秀吉の怒りを買い領地の一部を没収される羽目になって、その後政治的にも弱体化した。

牛ヶ城跡にて
現在では杉木立の連続になっている城址を登城口からに沿って本丸方向へ登る
木漏れ日の明暗が大きく写真撮影は難しかった

登城口から僅かに登った付近はなだらかである

画像は10枚です。 右のボタンをクリックして下さい →


「強者どもが夢の跡」という言葉があるがどこの城跡を訪ねても感じるのは歴史に埋もれた
空しさだ。しかし、ここ牛ヶ城は 落ちない城 としてずっと地元の誇りとしているばかりか
受験を控えた春先には麓の武隈神社には合格祈願の受験生が多数訪れるという


  1. 2016/10/07(金) 15:00:00|
  2. 小さな旅
  3. | コメント:4

カレンダー

09 | 2016/10 | 11
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -

旬の花時計 V2

プロフィール

松ぼっくり

Author:松ぼっくり
FC2ブログへようこそ!
最近は歴史劇映画に興味。
カメラや写真・旅行などに
生きがいを感じている

最新記事

最新コメント

月別アーカイブ

天気予報


-天気予報コム- -FC2-

リンク

このブログをリンクに追加する

QRコード

QR