那須野の旅人

那須を起点として各地の風物や生活ぶりを見つめます

源有綱塩原に死す


塩原には昔からいくつかの伝承が記されています。
山深い未開の土地でしたから戦に破れれた落人の隠れ里となることが多く、 それに
まつわる伝承がほとんどです。今回は鎌倉時代同じ源氏でありながら頼朝に逆らって
宇治の決戦で破れて塩原に逃れた源三頼政が潜んでいた源三窟での話を紹介します


地元塩原温泉に残る鎌倉時代初期の出来事です。
心温かい村人たちの好意がアダとなった皮肉な話

源有綱の最期

この伝承は史跡鍾乳洞「源三窟」として塩原温泉の観光スポットの一つとなっています。
( 読み方は「げんざんくつ」といいます )
  この伝承について疑問点を2,3取り上げてみました。
先ず米についてですが、 米の研ぎ汁が白く濁るほどの白米を食べるようになったのは一般に江戸
時代の明暦年間 (1655~1658年) 頃からだと言われています。しかし, 平安時代でも貴族の間
では白 米に近いものを食べていたとの説もあります。 それはあくまでも 貴族であって庶民は玄米
をそのまま焼いたり蒸したりしていたそうです。 源有綱は義経に就いて戦っていましたが年齢も義
経とほぼ同じで保元・平治の乱で戦功があり 平清盛に一時は信頼された源三位頼政を祖父に持つ
良血ですから贅沢な白米を食していたかもしれません。 しかし、 逃亡先の山里塩原に白米が存在
したかといえば疑問で塩原要害の城主塩原八郎家忠からの差し入れがあったとしても 一山奥の要
害に精米技術が伝わっていたとは考え難く、 この米の研ぎ汁に関する伝承は後世の創作とみるの
が妥当ではないでしょうか。 史跡といっても伝説に近い話なのでこうした粉飾例は他にもあります。

又、かなり信頼性のある史書である『吾妻鏡』等の記録では有綱は今の関西地方が活動の場であっ
たらしく、頼朝に追われた義経と別れた有綱は郎党と共に大和国宇陀郡に潜伏したが、  文治2年
6月16日、 義経の残党を捜索していた北条時定の手勢に発見され、 合戦の末に敗北し深山に入っ
て自害したと記されていて塩原に潜伏したことにはなっていません。どちらが真実なのでしょうか?
もう一つの疑問は 洞窟を発見され頼朝の手の者(北条方)の襲撃にあった際に 戦いに敗れて自害
し たことになっています。  どういうわけかこの種の伝承は最期に自害が多いのですが義経は別と
して有綱の場合狭い洞内で不意撃ちを食らったのですから 『自害』 する暇はなかった筈です。 たと
え洞外に出て戦っても、 家来が何人いたか不明ですが自害には少々の時間を要するのが普通で、
激しい突発的 戦闘の中では無理と見て私は自害ではなく討ち死にとしました


源三窟内にある武具資料館には洞内で発見された有綱のものと言われる鎧・兜が
保存されていて、年代測定でも実証され興味深い
有綱の遺品

尚、 源三窟という名前の由来は、 有綱の祖父源三位頼政(げんさんみよりまさ)の一族が都を逃が
れ塩原に辿り着いた時に立ち寄ったのがこの鍾乳洞で、 当初は源三位穴と呼ばれましたがいつ頃
からか今の『源三窟』の名前に替わったようです。源有綱に関わる人物相関図を下に掲示します


源有綱家系図
朱記の部分にご留意ください
源三窟の名の由来である源三位頼政は相関図の中ほどに見えます。三位というのは朝廷から賜った
官位であり頼政は上から4番目に高い従三位で中納言という身分ですが宇治での末路は哀れでした。

この時代は源頼朝が鎌倉幕府を開いてから円熟期に入って、 北条氏も頼朝の妻に政子を配したこと
もあり徐々に幕府内で勢力を強めていた頃で頼朝に協力して義経追討の先鋒を担っていたのである。
その北条氏の追っ手が山深い塩原にも及んだのであった

  1. 2018/02/18(日) 14:01:32|
  2. 未分類

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