那須野の旅人

那須を起点として各地の風物や生活ぶりを見つめます

落ちない城  500対10,000の戦い


  福島県天栄村牛ヶ城跡 (周辺の土地名から正式には大里城という)
東日本大地震では天栄村もかなりの被害を蒙った。震災後1ヶ月の時点で訪ねた際は農家の
土蔵や石塀など、いたる処で全・半壊が見られ、心傷む惨状だった。
天栄村は羽鳥湖へ通じるR294が中心を貫いているので度々立ち寄って道の駅での買物や294
沿いにある牛ヶ城跡の散策など楽しい土地であった。しかし、 道の駅は放射能で汚染さている
農産物が扱えない事から半閉鎖だった。 よく汲んでいた清水も汚染が心配という事から今まで
足が遠のいていた。久しぶりの天栄村はすっかり元の姿に回復していた。
今回は牛ヶ城跡を訪ねて登城口からゆっくりと丘を登りながら、写真撮影を楽しんだ


牛ヶ城跡を訪ねて

ふるさと文化伝承館

 今から600年前に築かれた山城で正式には大里城という。当時の城は平時に住む「館」と
戦時に立て籠る「詰の城」とに分かれていた。館は下図の南側にあったと思われる。
牛ヶ城の戦国時代の城主は須賀川や岩瀬地方を支配していた二階堂一族、箭田野氏で
守備兵力は400~500と非常に少なかったようだ。 そこを伊達政宗の軍勢約1万が包囲し
たのである。前年には本家の須賀川城が伊達軍によって落城しており、 政宗はこの城を
落とすことにより、会津を始め白河を除いた福島の中通り大半を手中にできるので必死で
攻め込んだが当初の見込みとは違い苦戦を強いられることになる。 これが後の政宗の
政治的危機を招く事になる。それに関しては後述する

牛ヶ嬢鳥瞰図
上図中の数字は「郭」と言われる平地で郭と郭との間には急峻な段差(崖)が設けられていて、
城攻めには厄介な構造だ。一見平凡な山城のように見えるが伊達軍を苦しめた一因になった。
現在は本丸跡まで郭部には見学し易いように階段が造られている。
↑ 図と↓ 図はGoogleフリー画像から


牛ヶ城攻防の様子
  さて、伊達政宗から牛ヶ城攻撃を命じられたのは二階堂氏滅亡後に須賀川周辺の領地を与えられていた石川昭光を中心に伊達家の重臣片倉小十郎や伊達成実などで、牛ヶ城を三方向から取り囲んだ。小さな山城と侮った伊達軍は最初の攻撃で大打撃を受け、その後援軍を得ての攻撃も牛ヶ城側の強力な鉄砲隊の活躍や郭への斜面を登る伊達兵に対して大石を落としたり、夜になって寝静まった伊達軍陣地に夜襲をかけるといった戦法で僅か500足らずの守備兵が1万の伊達軍を寄せつけなかった。
  ある時などは城への水の供給源である清水場を抑えていた伊達兵数十人が、折からの豪雨に怯んでいた隙に急襲され全滅するなど伊達軍は牛ヶ城を容易に落とすことができない。その要因の一つには伊達軍の総大将石川昭光が先年まで二階堂一族として共に戦っていた牛ヶ城側に対しあまりやる気がなかったとの説もあり、結局落城しなかった。又、秀吉の小田原城侵攻の最中であったことだ。

政宗は秀吉の命令で小田原の北条攻めに参戦するように促がされていたので、それを守らざるを得ず牛ヶ城攻めにはわずかの兵を残して小田原へ移動したのであった。しかし、到着には大幅な遅れを生じ、秀吉の怒りを買い領地の一部を没収される羽目になって、その後政治的にも弱体化した。

牛ヶ城跡にて
現在では杉木立の連続になっている城址を登城口からに沿って本丸方向へ登る
木漏れ日の明暗が大きく写真撮影は難しかった

登城口から僅かに登った付近はなだらかである

画像は10枚です。 右のボタンをクリックして下さい →


「強者どもが夢の跡」という言葉があるがどこの城跡を訪ねても感じるのは歴史に埋もれた
空しさだ。しかし、ここ牛ヶ城は 落ちない城 としてずっと地元の誇りとしているばかりか
受験を控えた春先には麓の武隈神社には合格祈願の受験生が多数訪れるという


  1. 2016/10/07(金) 15:00:00|
  2. 小さな旅
  3. | コメント:4
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コメント

牛ヶ城の戦い

こんばんは~ 今日は爽やかな一日でした
こうした秋の日和が長く続けばいいのですが・・・

牛ヶ城の攻防戦の記事、楽しく拝見しました
松ぼっくりさんの歴史に対する造形深さを改めて知りました

伊達政宗は郷土の英雄ですが、ここでは何という無様な姿でしょう
ヒーローの隠れた真実の一端を教えられた気がします
それにしても伊達軍1万に対しわずか500の守備兵で
城を守ったとは素晴らしいことですね
信じられない気もしますが記事をよく読みますと史実ですね
牛ヶ城の立地条件が非常に攻めにくいのと、伊達政宗が
小さな城と侮った奢りもあったのでしょうね

相当な戦死者も出したのでしょうね。情けないことに
当時の政宗は秀吉には全く逆らえず、牛ヶ城攻めを放棄して
小田原に行かねばならなかったのは止むを得ないとしても
歴史が好きなわたしも尊敬していた正宗公にこのような
史実があったのを初めて知りました。相当悔しかったと思います

それにしても牛ヶ城守備兵の勇ましさは凄いと思います
本丸のある頂上からの風景は素晴らしいです

「落ない城」と受験生の関係は面白いですね
 歴史の隠れた真実を教えていただき有難うございます

  1. 2016/10/08(土) 00:27:59 |
  2. URL |
  3. みちよ #-
  4. [ 編集 ]

お早うございます
福島県にある牛ヶ城跡、震災に大きな痛手を受けた地域が見事に復興を果たしている様子を見せていただきました

合成写真も可成り立派に出来ていると思います
本丸跡までは大分坂を上らなくてはいけませんね
昔から西洋東洋を問わずお城というものは難攻不略の難しい場所に建立されているのは、誰でも考えは同じなんですね
伊達軍大いに苦しめられたとか。

この牛ヶ城は落ちない城として受験生が大勢祈願に訪れるということはやはり日本らしいですね

  1. 2016/10/08(土) 08:59:19 |
  2. URL |
  3. 花ぐるま #-
  4. [ 編集 ]

みちよさん

早々のコメントありがとうございます。
一昨日の爽やかさとは打って変わり今日は朝から小雨模様でした。

そうでしたか~ 考えてみれば宮城県は伊達政宗のお膝下でした。
尊敬しているしている正宗公のとんだ体たらくを
記事にしてしまいたいへん失礼しました。

みちよさんはやはり歴史がお好きのようで何よりです。
歴史はその時の一通過点ですから秀吉の怒りを買い
領地の一部を没収されたのも良い教訓で秀吉亡き後の徳川の時代には
かなり活躍して恩賞でかなりの領地を獲得していますね。

500対10,000という圧倒的な戦力をもってしても落とせなかった
牛ヶ城はよほど攻めにくい山城だったのでしょう。
伊達政宗ではなくてもやはり無理だったかもしれません。

当時の秀吉の勢いは多大なものがありましたが
没後には結局は家康の軍門に下ったことになります。
歴史は繰り返すと言われます。戦国時代の各武将の生き様は
現代の政治や会社運営などにも参考になるのではないでしょうか。

落ない城と受験生の話。人は何かにすがりたい時は
藁をも掴む思いで実体のないもので験担ぎをするのでしょうね。
  1. 2016/10/09(日) 01:14:34 |
  2. URL |
  3. 松ぼっくり #-
  4. [ 編集 ]

花ぐるまさん

コメントいつもありがとうございます。

山城の城跡では遠景など絵にならないので画像合成で櫓らしき
ものを加えてみましたが、お恥ずかしい出来です。

天栄村もようやくほぼ完全に復興しました。
天栄村と一言でいってもかなり広く北は羽鳥湖までを含み
会津との境界線まで延びていますし、南は白河市一帯を境にしています。
今でも村のままですが、一度役場を訪問したことがありますが
かなり進んだ機構で運営されているようでした。
道の駅では地元野菜が格安で特産のヤーコンは立派です。

主に山城は急峻な山岳部にあって、難攻不落の城も多かったようです。
当時の武士はこうした城へ日夜勤めていたのですから
脚力も相当なものだったのではないでしょうか。
  1. 2016/10/09(日) 01:45:06 |
  2. URL |
  3. 松ぼっくり #-
  4. [ 編集 ]

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